西の家物語    -過ぎし日々- 2


 3, 父の話によると、昔はかなりの地主であったようである。西の家の 南側一帯は、中野から在家に上がってくる道の辺りまで西の家の畑であったとのことである。

 例えば、直ぐ下の家は、以前は西の家の北側道路の上方にあったが、確かどこかの畑との交換で現在のところへ 移ってきたと言っていた。道路をはさんで斜め下の家については、現在の屋敷の道路側の部分は、 2、3代前までは西の家の畑であり、隣地間でよく揉め事があったとは、叔父から聞いたことである。 多分、ある時代までは屋敷の前方が開け、傾斜地であったこともあって非常に眺望に優れていたと思われる のである。

 また、江戸時代末に部落に疫病が流行した際に建てられた「足尾山中都ノ神社」の敷地には西の家の山の一部が充てられており、寄贈したのではなかろうか。

 江戸中期から明治にかけての土地売買のときに取り交わした古文書が かなりの数見つかっているのであるが、「売り」と「買い」の割合は「売り」が 圧倒的に多いところをみても、長い目で見た場合、西の家は土地に関する限りじり貧であったと推察されるのである。

 父からの言い伝えのかなりの部分が、その後目にした古文書で間違いでなかった ことが判明し、たかが言い伝えとこれを軽く扱ってはならないと自戒しているところである。

 4, 西の家の墓地については、先にも触れたように明治までは屋敷内の北西の一段と高くなった場所にあったと言う。

 明治になってから、現在の墓地を部落全体の墓地としたと言うことである。 なお、何時までかは不明であるが、現在「地蔵寺」という地名になっているところ(寺跡あり)に この部落の寺があったと言う。この寺は「松尾山地蔵寺」と呼び、国志によると「除地14坪、本尊は地蔵」と あるとのことである。しかしそれは山崩れで流されてしまったそうである。その時この寺の過去帳も消失して しまい、寺の資料を手がかりにこの部落のことを調べることはできなくなってしまったということである。 これは一部を除き父が話していたことである。

 幕末から明治にかけては、西の家にはいろいろと良くないことが起こったようである。 父からも聞いていたし、その後、私が発見した古文書からも知ることができる。前にも記したように、 幕末に西の家では牧平の土屋家から養子をとったのであるが、女性の方が女の 子を一人残し他界してしまったとのことである。その後、後妻を市川村から娶った のであるが、今度はその夫が男子一人を残し他界してしまったのである。 後妻がきてその時に武具その他金目のものが散逸してしまったとは父が良く言って いたことであったが、私が発見した古文書によっても父の言っていた後妻のことも 間違いでなかったことが判明したのである。 一人娘が13歳の時(叔父の話)に分家から養子をとり、今日につながっているのである。 これまでの経過の中においては「言い伝え」が意外と正しいことに驚きを覚えているところである。

 西の家の集団墓地の中における墓地の位置は決して良いとは言えそうにない。 この墓地の位置が明治初期の西の家の衰弱ぶりを具現しているような気がしてならないのである。

 私の調べたところによると、江戸時代以前の石塔は全部で3基あり、そのうちの 2基は江戸中期以降のものであり、年月日も記されている。残り一基は三面にわたって 戒名が記されているだけで、そこには年月日は記されていなかった。よって何時頃の 石塔か全く不明である。戒名の末尾は、いずれも「居士」、「大師」であった。西源寺の住職の法事の時の 話によると、江戸時代以前においてこの地方で法名に「居士」がつくことは非常に希で あったとのことであった。しかし、なぜそれがついたかについては何ら明らかにはされなかった。

 この寺は建久初年(1190年)安田義定公の守護寺として活眼全竜和尚によって、 城山(じょうやま、小田野山城)の西側山麓の「井戸窪」に創建され、黒印500坪を配領されたとのことで あるが、この地において、山崩れにあい、その後現在の地(鳥野原)に移転されたとのことである。そして、 この時にそれまでの記録は失われてしまったとのことである。

 現在でも、在家の東側、我が家の畑「うっこうし」の辺りに「西源寺入り」という地名が残っているようで ある。これは、今の感覚からすれば、やはり奇妙であって寺か見て奥深い山の方向、「井戸窪」の北西に位置して いるのである。 「在家入り」と同様、この方向は要害の城に向かう方向であったと見れば納得のいくことである。さらに、西源寺 の住職の話によると、安田義定の自害の場所は諸説があるけれども、どうも「奥井戸窪」が正しいのではないか とのことである。「井戸窪」から城への通路が元々あり、その通路にそって城に向かう途上何らかの予期しない 出来事(東側ルートからすでに敵が城に入っていたなど)が生じ、「奥井戸窪」で自害することとなったのではないかとのこと、この ことは十分に考えられうることである。

 古文書に始まり、今度は石塔(この地方では「お石塔」と呼んでいる)にまで、探求の対象が広がったのである が、今はこれがさらに広がりweb上に墓誌を作ってみようというところにまできてしまっているのである。 これはWEB墓誌の試作品(作成途上)である。次に、江戸時代以前の我が家の墓地の お石塔の画像を示す。石塔の家紋は「丸に井桁」である。ところが平成26年暮れのことであるが、偶然別の家紋が見つかった。「丸に花菱」 の家紋である。この家紋は秘匿されていたかのようである。白で縁取られた他に類のない美しい家紋である。これに似た家紋は武田信玄、武田勝頼、武田信勝の武田家3代の肖像画にも見ることができる。この「丸に花菱」の家紋は武田家との繋がりを暗示しているかに見えるのである。

*年月日なしの石塔 *安永年間(1772~1780)の石塔 *延享4年(1747)と寛延元年併記の石塔(1748)

墓誌原稿   法名について  他に見る「丸に井桁」(三好政盛の位牌の家紋)

 この在華(江戸時代までは在家、何時からか、在華に変えたようである)という部落の脇を北から南に流れている小川の水量は消えそうに僅かである。また、我が家の裏庭の池に引き込まれていたという屋敷北側上段の道の西側にある湧き水の水源もほとんど枯れてしまっているようである。この水源については、我が家に水利権があるとよく話に聞いていたものである。
 ところで、 古明地式夫さんによると、どれくらい前かは定かではないけれども、かってはこの部落の水路には豊かな水量があり、水車まで作られていたそうである。また、大規模な洪水も起こったらしく、太い流木が掘り出されたこともあったということである。何故水量が落ちてしまったかは分からないけれども、今より水量が多かったことは、当時の居住にはより好都合であったと思われる。

写真集1ー 中牧尋常高等小学校高等科卒業生記念 古明地衛敏渡米時写真


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