インターネットにそのことが顕著に具現されていますが、現在のさまざまな分野に おけるボーダレス化 には目を見張るものがあります。ですから日本の不動産分野においても、どこまで 「グローバル・スタンダード」に近づけることができるか、その可能性について 検討してみることそのことについては十分に意義があると思われます。 しかし、おおにしてこのような場合には、最初にグローバル・スタンダードありき という発想になりがちなのです。グローバル・スタンダードが絶対であり、それ に合わせるのが至上命令であるという発想であります。その前に、そもそも何をグローバル・スタンダード として取り上げるかがあります。これが最初に直面する関門となるでしょう。
すでに科学技術の領域については、古くから世界共通化が進んでいます。この分野は もっともグローバル・スタンダードになじみやすい分野といえるでしょう。 ですから科学技術は海外から取り入れ易く、かつ日本から海外に流れてもそこにうまく 溶け込み易いのであります。 これに対して、他の社会領域は一般に世界共通化は、程度の差こそあれ容易ではないようです。 しかし、言語については、商業活動においては英語が世界標準になりつつあるようであります。 例えば、銀行業務については、英語が国際間取り引きの基準言語になっているとのことであります。 日本の英語教育も文法に片寄った言語学的な教育から実用的な英語教育へ変えていく 必要があるでしょう。
一方、ただグローバル・スタンダードを追い求め、それに追従するだけでは心もとないの であります。日本にある日本固有の素晴らしい何かを「グローバル ・ スタンダード」として 世界に提示していくことも大切ではないでしょうか。先に「グローバル ・ スタンダード」として これを世界に広めた 国家や企業の世界における有利性はいうまでもないからであります。 例えば、インターネトの分野においては、英語圏は断然有利な立場にあるのであります。
さて、不動産分野のスタンダード化ですが、私見を申し上げますと、これの優先順位 は最も下位にもってくるべきでしょう。これは、国々、いや地域においてまでも、そこ の独自性そのものだからであります。時には国体の変容にまでつながる要素も含んでいるの ではないでしょうか。
海外の不動産事業に進出した日本企業は、一部の例外を除いて、大から小までことごとく 敗退しているようであります。いろいろ理由はあるでしょうが、日本に限らず、どこに おいても、不動産分野が「グローバル スタンダード」から最もかけ離れたところにあっ た、というのが最大の理由ではないでしょうか。不動産分野は、国々、土地土地の風土、慣習、 伝統、法制度、歴史そのものなのです。日本的感覚で国外での不動産事業をやっても成 功を手にするのは困難だったというのが海外での不動産事業の失敗の最大の要因と思われる のであります。
従って、国土庁など焦って、日本の不動産市場をグローバル・スタンダードに近づけようと することはさらさらないと思われます。
日本においては新し仕事を作り、夜遅くまで仕事をするのが立派な職員であるという雰囲気が何となく 職場に出てきてしまっているようであります。このような慣習もほどほどにすべきでありましょう。(ちなみに ドイツの有名な将軍の中には役に立つ人物として「有能で怠け者」という条件を挙げている人もいます。 この反対は「無能で働き者」と言うことになります。)
国土庁においても多分若手を中心にまず最初にグローバル・スタンダードありきの雰囲気にしたっている のではないのでしょうか。 このような悪習はとっとと止めにすべきでありましょう。 このような仕事は却ってサボっていてくれた方が日本のためであるかもしれないのであります。夜遅くまで あまりにも熱心に、献身的に働くことが経費の浪費につながり、成果なし、 いや日本にとって逆効果になるということだってありうるのであります。(1997年、8月26日)
(1997年、8月26日)
始めに、収益還元法も一つの鑑定理論とみて、何とか理論ということについて
考えて見ることにします。そもそも理論については、これはどこまでも、信頼性
は高いかもしれないけれども、ある時代、ある地域において、帰納的に導き出さ
れた1つの仮説に過ぎないということであります。さらに、社会科学における
理論の普遍性は、自然科学におけるそれに比べ、はるかに低いということであります。
それは、社会現象の根底にある諸要素があまりにも多く、かつ複雑に入り組ん
でおり、その上常に変化に晒されているからであります。
1時期、世を風靡したマルクス主義についても、ある時代、ある地域においては、
もっともらしく見えた、1つの仮説に過ぎなかったという見方であります。
これについては、旧ソ連において、多数の人々の犠牲を伴った壮大なる実験がなされた
にであります。
要するにおおにしてそうなりがちですが、収益還元法を絶対視し、
それに合わない現実が誤りであるという考え方は排すべきだということであります。
しかし、人々を納得させるためには、何らかの物差しが必要です。便宜的に用意された
その物差しの1つが収益還元法ということだと思います。長谷川徳之助とかいう方は、
不動産評論家としては著名でありますが、不動産価格が下降を続け不良債権問
題が次ぎから次ぎへと噴出している最中、収益還元法という物差しを論拠にして
日本の不動産価格はまだまだ高いとまくし立てていたのであります。その物
差しがが絶対的であるかのように設定しての主張だったわけであります。
諸外国の不動産事情についてもほとんど何も分かっていないのですが、少なく
ともいろいろと欠点はあるものの日本の不動産登記制度の信頼性は諸外国に比べ
高いものと思われます。これが不動産の担保としての価値を高いものとして
いるのではないでしょうか。担保価値としての不動産は、不動産業に限らず
あまねく企業活動における最重要経営要素の1つとなっているのであります。
彼はこの点についての考慮はされているのでしょうか。
車を購入する動機は、第一にその機能性でしょう。高額のベンツも私の乗っ
ている中古のジェミニ(購入の動機は値ごろ感)も機能的には大差はないでしょう。
この機能性は、不動産の収益性とほぼ同義ではないでしょうか。しかし、車購入の動機は機能性
だけではないのです。購入者の価値観、経済力によってどのような選択をする
かが異なってくるのです。
不動産についてもしかり、収益性を超えた購入があっても、何ら不思議はな
いのです。政治家が豪邸を持つ場合、政治的意図が経済性を埋没させてしま
っていることもあるでしょうし、一般の自宅の購入にあたっても、高級車を
購入するような感覚で不動産を買う人もいるでしょう。収益還元法の理論に
はこういう点においてもも不自然さがあるのではないでしょうか。
高価なダイヤ
モンドに収益性があるでしょうか。心的満足を金銭に換算するのが困難だか
らです。投資要素を含んだ心の満足のために購入するのではないでしょうか。
絵画にしてもしかりでしょう。
無配の株式がなぜ買われるのでしょうか。その会社を支配するために買う
ケースはごくまれです。その時点における収益性はまるっきりないのです。
大抵の購入動機は、投資もしくは投機にあるのです。不動産についても、
その時点での収益性を無視した購入があったとしても、何ら不自然ではないの
です。(1997年、8月30日)
不動産鑑定理論
不動産鑑定については、全くの門外漢ですが、不動産業を少々やっている
点においてはいささかの繋がりがあります。最近、不動産価格が高いか、
安いかの判断基準として、よく引き合いに出される不動産鑑定の1要素に
収益還元法というのがあります。ここに少々踏み込んでみたいと思います。